「大人が未成年を性の対象にすることを肯定するメッセージ」について

日経新聞に掲載された「月曜日のたわわ」の広告について書いた記事で、以下のように書きました。

 

hepta-lambda.hatenablog.com

 

「「月曜日のたわわ」は未成年を性の対象として描いた作品であり、日経新聞という社会人をターゲットとした新聞の紙面に女子高生のイラストを用いた広告を載せることは、大人が未成年を性の対象にすることを肯定するメッセージとなるので問題」という意見はある程度同意できます。

 

ただまあここで言う「ある程度同意できる」というのは「気持ちはわかる」くらいの意味で、やっぱりこの理路を持って「広告の掲載は不適切だった」とは言い切りたくないんですよね。

未成年に対して(読者が)性的な視線を向けることを楽しむ漫画なのは確かなんですが、対象は非実在のキャラクターだし、Aという概念を肯定的に描いているフィクションの広告を載せた媒体は即ち現実でもAという概念を肯定するメッセージを発している、とはならないと思うので

 

 

ここに関連する記述(ブコメ返信)についてコメント欄で突っ込みを頂き、改めて自分の記事を読み直したところ、自分の脳内にあった考えをうまく文章として出力できていない上に、複雑な問題であったため考え自体が混乱していたなと感じました。
改めて整理して自分の立場を表明しようと思います。
 
 

1.「未成年を性の対象にすること」とは

一言でざっくりまとめてしまったけれど、「未成年を性の対象にすること」の中には、問題になる行為とならない行為があります。
 
 

A.非実在の未成年を性的に鑑賞したり、それを発信すること

これについては対象が非実在である以上問題のある行為ではないと思います。
 
B.現実の未成年を性的に見る・思うこと(それを内心に留めること)
これも内心に留める以上問題ではないと思います。
発信を伴うものであっても、同好の士の間で語り合うとか、「実際の未成年に伝わらないもの」はここに入れます。
 
C.現実の未成年に性的に見ていることが伝わる行動を取ったり、接触を図ること
現実の未成年に「性的に見ていること」が伝わるような行動を取り恐怖心や不快感を与えたり、接触を図ったりすること、ここからが明確に「問題」となる行動であると思います。
 
 
細かく各行動や発信を見た時「これはアウト?セーフ?」と議論になるものはあると思いますが、今回はおおまかにこのように分類して考えます。
 
 

2.「肯定するメッセージ」とは

発信者が何らかの表現を行った場合、ある概念について「肯定するメッセージを発している」という状態にも、大きく分けて二種類あると考えます。

 

①明らかに発信者が肯定する意図が読み取れる場合
「そうだ、京都へ行こう」と書いてある広告が掲載されていたら、広告の出稿者、掲載媒体共に「京都へ旅行に行くことを肯定している」ことは明らかであるように読み取れます。
出稿者や掲載媒体の頭の中を覗くことができない以上、本当はどういう意図を持って広告を出したのかは外部の人間からは完全にはわからないので結局は「多分肯定しているだろう」と外から見た印象で勝手に判断するしかないですし、「肯定している」と見る人も「肯定していない」と見る人もいて議論になるようなケースもあります。


②発信者にその意図が無くとも、結果的に「肯定するメッセージ」となってしまう場合
たとえば「ある特定の国や地域で「差別的である」とされているポーズや構図を知らずに使ってしまった」とか、発信者の意図にかかわらず「メッセージとして機能してしまう」ということはあります。

 

・今回の広告に対する私の見方
ここに関してはあくまで「私の見方」であり他の見方をした人の意見を否定するものではありません。
私は今回日経新聞が掲載した広告が前段落のCにあたる「現実の未成年に脅威を与える行為」を①肯定しているようには見えませんでしたし、②肯定するメッセージとなってしまっているようにも思いませんでした。
今回講談社日経新聞が肯定していると読み取れたのはあくまでAの「非実在の未成年を性的に鑑賞すること」であり、それ自体は問題であると思いませんでした。
(気持ち的には「たとえ非実在とはいえ日経新聞の発するメッセージとしては下品では?」という思いはありますが、「不適切である」とは思いませんでした)

 

3.でも「肯定するメッセージとして受け取ってしまう人」はおそらく居る

発信者の意図がどうあれ、表現というのは受け手に様々な印象を与えます。
これは発信者がコントロールできないもので、究極的にはどんな表現であってもそれを「悪いメッセージ」として受け取ってしまう人は居ます。

今回の場合、「肯定するメッセージとして受け取ってしまう人」にも大雑把に二種類の人間が存在すると思います。


①性的な被害の経験がある当事者
性的な加害を受けたことがあり、今回の広告を「日経新聞の読者層のような大人たちが自分達のような未成年を性的に見ることを、日経新聞のような「真面目な」媒体が肯定している」と受け取って傷付いてしまう、社会への絶望を深めてしまう未成年の当事者です。

 

②未成年を性的に見る側の大人
今回の広告が日経新聞のような「真面目な」紙面上にも掲載されることで「未成年を性的に見ることは当たり前のことだ」という感覚を持ってしまう大人です。

 

・今回の広告に対する私の見方
私がこの「肯定するメッセージ論」に「ある程度同意できる(気持ちはわかる)」と言ったのは、①の「被害を受けた当事者」が傷付いてしまう可能性があると思ったからです。
私は今回の広告がCを肯定するものではないと考えているので、このようなメッセージとして受け取ってしまう被害当事者が居たとしても「日経新聞はあなたの受けた被害を肯定してはいないと思う」という立場です。
ただ、現実に傷を負っている子供に対して「それはあなたが勝手にそういうメッセージを受け取っているだけ」と切り捨てるのはあまりに残酷であるとも思っています。
なので、これを持って今回の広告が不適切であるとは思わないけれども、気持ちの上では「せめてもっと「大人から子供への性的な目線」を想起させづらい媒体への掲載にできなかったものかな」と思っています。

②については、こういった「表現が世界に悪影響を与える」論については「本当に悪影響を与えているか」がはっきりしない限り「不適切」とは言いたくないです。
今回の広告のような表現の影響でCのような行為を行う人が増える、ということが証明されていない以上、「悪影響を与えていそうだから」で不適切と言うべきではないと考えています。

 

 

 

私はフィクションに救われて生きている人間なので、「なるべく多様な表現が溢れる世界に生きていたい」と思っており、「表現の規制ではなく現実に働きかけて加害を無くしていく」ことが理想だと思っています。
そのため、ある表現について「不適切だ」と言い切ることは、よほど悪質に感じるケース以外にはしたくないという考えです。
「不適切」ではなく「個人的に不快」という言葉なら使うと思います。


改めて強調しますが、上記の文章はあくまで「私の意見」であり、異なる意見を否定するものではありません。